月曜ア・ラ・カルト16 (時事の戯言67)絆の強要

5月18日 月曜日 月曜ア・ラ・カルト16

 

こんばんは。

 

緊急事態宣言が解除され、日常生活を取り戻しつつある方も多いと思います。自宅で過ごす時間、拘束されない纏まった時間は、平時では得られない貴重な時間である一方、同僚や友人はどのように過ごしているのかなど、とかく気になることもありますね。

 

かなり前ですが、歌手の松任谷由実さんが”自由と孤独、不自由と連帯は表裏一体”といった趣旨の発言をされていたのですが、まさにそのとおりで、自由な時間が増えた中で孤独を感じ、不自由でも連帯を求めたくなるヒトの心理は不思議なものです。

こうした状況になると、特に大きな自然災害の後など、”あなたは一人じゃない”と励ます意味で、「絆」を強調する動きが出てきます。それにより励まされ勇気づけられ安心できる方がたくさんいるので、素晴らしいことだと思います。

 

こういうとき、逆にわたしは自分のダメさ痛感します。

何かを強要されることに対して、意味も無く反発を覚えてしまうのです。

たとえばわたしはこのブログ意外に、facebooktwitterも利用していますが、facebookを見ていると、いくつかのチャレンジが回っています。

いつも知人・友人らの投稿を寝る前に見て、明らかに意に沿わない投稿以外は「いいね」をするようにしているのですが、あるとき友人の幼少期の写真を見て、可愛かったので「いいね」を押すと、個別にメッセージが来ました。「はい 『いいね』押しちゃいましたね(笑) 自分の幼少期の写真を貼って投稿しましょう! 『いいね』押してくれた人に繋げてくださいね~ あと、『罰ゲームで』と書かないように」という内容のメッセージでした。わたしも大人ですから、そこで荒立てること無く自分の幼少期写真を投稿し、以降は誰にも回しませんでした。

他にも、腕立て伏せチャレンジや、ブックカバーチャレンジなど、明らかに回しているであろう投稿が見られるので、以降は”臭う”投稿は無視するようにしています。

ココがわたしのダメなところなのでしょうね。

 

例えば、「幼少期の写真を貼ってみんなで楽しもう!」「この時間に部屋の片づけをするキッカケにしよう!」宣言があり、それを一つの遊びとして楽しいと感じたり、あるいは自ら参加したいと思った人が参加することにはまったく違和感を覚えません。

そこには参加し、投稿する人の自発的な意思があるからです。しかし、まるでだまし討ちのようにされたり、あるいは次の誰かを指名されると、わたしの中では違和感が芽生えます。しかもそこには、こんな苦難のとき、孤独なときに、”心のどこかで繋がっていよう”という善行の意味づけまでされているので、断りづらい空気まで添えられており、わたしの中では余計に嫌悪感を覚えるのです。

 

そして思い出すのです。あの3・11のとき、わたしは仙台で働いていました。

全国から多くの社員が出張で手伝いに来てくれました。物凄く助けてくれて、コチラが感謝する方には、個別に御礼も伝えましたし、気持ちも示しました。

しかし、本社から「あんな状況の仙台にわざわざ社員を行かせたんだから感謝しなきゃ」「あのときは当社の社員の強い絆を感じたよな」「全国の助けあってこその仙台だった」と言われ、その恩着せがましさに自分の中ではシラケてしまったのを覚えています。むしろ、物見遊山に沿岸部に行きたがる社員や、何もせずに手間ばかり掛かる社員もいましたから、内心は”遊びに来るなら帰れ!”と思いましたし、そもそも「あんな状況の仙台にわざわざ」という表現には怒りさえ覚えました。

テレビをつければ「絆」という言葉ばかりですし、社内報も「絆」「連帯」です。この価値観の押し付けには辟易したのでした。

 

コチラが感謝を覚え、あるいは繋がりを求め、自発的にアクションすることは賛成なのです。しかし、そこに強要テイストが加わった途端(まして、ご丁寧に正義感まで加えられると)、そのことにわたしはコロナのストレスを感じてしまうのです。

 

かような事態に陥ると、自分のダメさを痛感する、という愚痴めいた話でした。