MASA日記

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【訃報】「闘将」星野仙一逝く

1月6日 土曜日 スポーツ

 

★本日は、特別に2連続で投稿します。 

朝、目覚めて一番にスマホでニュースのヘッドラインを流し見します。その一番下に、わたしにとって衝撃的な文字がありました。星野仙一さん死去 70歳」

 

わたしが中日ドラゴンズのファンになったのは小学校に上がる頃。地域柄、テレビ放送のある読売ジャイアンツか、地理的に近い阪神タイガースが大半。まだ多くの子どもが野球帽を被って遊ぶ時代でした。少し変わり者のわたしは、みんなと違う色の野球帽が欲しいと思い、青色のチームを選ぶことに、そのときテレビで見たのが巨人vs中日戦で、谷沢健一さん(左打者)に憧れて、中日ファンになることに決めました。その当時の監督は、山内一弘さん(故人)。せっかく好きになった中日ドラゴンズは、天下の読売ジャイアンツ(東京)と西の雄・阪神タイガースの狭間に埋もれていて、目立たない存在、応援し甲斐という意味では、少し弱かったと思います。

 

しかし、転機が訪れます。1986年、星野仙一氏(以下、「星野」敬称略)が監督に就任しました。たしか就任当時39歳、とても若くパワフルな監督が就任会見に臨んでいたのを覚えています。星野がエースだった時代を記憶に留めないわたしにとって、星野=監督でしたみのもんたがナレーションを務める「プロ野球 珍プレー好プレー」でもお馴染みになるほど、星野監督の激情型野球はインパクト大で、ファンであるわたしを異様に高揚させてくれ、ファンになって良かったと思ったものでした。

相手が誰であれ、良いものは良い、悪いものは悪い、とばかり立ち向かう姿は、ある意味でカリスマ的なものを持っていましたね。巨人戦での乱闘シーンは印象的で、敵将・王監督にも物怖じせず拳を突き上げるなど、まさに「闘将」でした。

監督就任会見で笑顔を求められ、「これから戦場へ行くのだ、笑えるか」と言ったそうですが、その心意気のまま、感情剥き出しで戦う姿にわたしは魅了されました

不本意な判定があれば、全選手をベンチに引き上げさせ、選手が審判に不服を言えば間に割って入り自分が退場となるなど、親分肌な一面もまた、星野監督の特徴でした。

 

反面、情に厚いことでも知られていましたね。選手や裏方さんの奥様の誕生日を覚えていて、花を贈っていたそうです。山本昌投手によれば、「どれだけ怒っても使ってくれる優しさがあった」と言います。とかく昭和の頑固おやじのように、鉄拳制裁ばかりに目が行きがちですが、その裏側には同じくらい、温かい心があったのでしょう

私生活においても、一度、中日監督を退いたのは、病状が悪化した奥様との時間を作るためだったという記事を読んだことがあります。その奥様が他界したのは1997年1月。享年51歳という若さでした。白血病を患った末、キャンプイン前日の1月31日に他界されたのですが、それでも毅然と球団行事に顔を出した星野監督が、通夜では人前で大泣きしたのもまた、印象的でした。残念ながら1997年のナゴヤドーム元年は最下位に沈みましたが、エース山本昌投手は18勝で最多勝最多奪三振のタイトルも獲得しました。そして1999年、監督として2度目の優勝を果たしたのでした。

 

星野監督退任後、中日は、山田久志氏、落合博満氏と、生え抜きではない政権が続きます。高木守道氏でOB監督時代が訪れますが、谷繫元信氏を経て現在の森繫和監督と外様政権になる中、当の星野仙一氏は阪神楽天へと渡り歩いたのでした。

 

特に阪神監督就任は、中日ドラゴンズ監督退任翌年の就任とあり、(少なくともわたしには)ある意味で裏切者と映ったのも事実でした。2004年から就任した落合博満氏は、星野監督の感情剥き出しの野球を真っ向から否定し、ベンチ内に気を遣うような野球をすべきじゃない、戦う相手はグラウンドにいる、とまるで無表情な野球で常勝軍団を築き上げました。こうしたこともあり、いつしか中日における星野監督の影は、どんどん薄くなったように感じていました

 

昨年7月14日、ナゴヤドームで行われたオールスターゲームの前。野球殿堂入りを果たした星野は、こう挨拶しています。

「久しぶりのナゴヤドーム。関西で戦い、東北、仙台で戦い、いろんな地域で戦わせていただきました。やはり、地域密着、きちっとしたチームこそファンから愛されるんだ。(中略)本当に私はこのナゴヤドームでこういう表彰をされるということも何かの不思議な縁がある。そんな気がして仕方がありません。ここに来ると野球ファンというより、中日ファンのために小言を言いたいな。こ~んなにいっぱいのナゴヤドームは見たことない。最近。もっともっとドラゴンズを応援してやって下さい。」

この言葉を聞き、”あ、星野はまだ中日を愛していたんだ”、と感じました

昨年12月には、古くから親交のあるCBC久野誠アナウンサーとラジオで対談。その中で「覚悟ですね。自分がこう思ったら、この選手を使い続ける。こいつと心中するという思いがあれば、絶対選手には伝わる」と監督の資質を説くと、「森監督は若い選手を使っているし、これから。名古屋気質、東海人の文化、歴史を大事にしてほしい。もっとファンを引きつけるように。サラリーマンの野球をしていてはダメ。個性がないと」と古巣にエールを送っていました。なにか、急に吸い寄せられるように名古屋での、中日への想いを発信した2017年。呼応するかのように、森監督も「名古屋という土地を知らなければいけない」「スターやエースだった、できれば生え抜きOBが監督をやるのが一番良いんだ」といった発言をされていました。

その年が明けた2018年1月4日、熱き「闘将 星野仙一」は、70歳という若さでこの世を去りました。亡くなったのが奥様と同じ1月というのもまた、情に厚い星野監督ならではと思えてなりません。

 

遠く霞む星野監督時代に中日ファンであることを自覚したわたしにとって、間違いなく一つの大きな歴史が幕を閉じた感覚です。昭和の、ナゴヤ球場時代の中日に、しばし想いを馳せながら、心からご冥福をお祈りします