MASA日記

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【特集】日本航空123便墜落事故

8月11日 金曜日 【特集】

 

こんばんは。

毎月11日は、東日本大震災を体験した中で、風化させないための「忘れない3・11」をお送りしていますが、今月は特別編として「日本航空123便墜落事故」を取り上げます。

 

1985年8月12日月曜日。乗員乗客524名を乗せた、東京(羽田)発、大阪(伊丹)行の日本航空123便が、群馬県上野村の山中に墜落した国内史上最悪の航空機事故です。

当時は、夕方便であることに加え、お盆の帰省ラッシュも重なり、満席での運航でしたが、524名中生存者はたった4名という悲惨な事故が報じられました。この事故では、歌手の坂本九さんを始め、財界の著名人らも犠牲となりました。この事故は、後に山﨑豊子さんの「沈まぬ太陽」のモデルともなりました。

 

わたしは当時まだ小学生で、家族旅行で長野県の湯田中温泉に宿泊していましたが、夕食時に流れたニュース速報に続き、一斉に報道番組に切り替わり、子どもながらに恐ろしいことが起きたんだ、ということを知りました。

 

事故機であるボーイング747SR-100(機体番号JA8119)は、羽田⇔千歳、羽田⇔福岡に続き、羽田⇔伊丹の往復で当日の運航を終える予定でした。

しかし、離陸後南西に進み、伊豆大島上空から和歌山県串本町上空を経て伊丹空港に着陸するはずだった航路から外れた同機は、18時24分頃、相模湾上空を上昇中に異常事態が発生し、羽田空港に引き返すべく富士山麓から山梨県大月町上空を右旋回するも、埼玉県上空で左旋回し、墜落した群馬県方面に向かい始めます。

地上の管制との交信で、18時28分には「Now Uncontroll」と機長が伝え、既に制御不能な状態に陥っていたことが分かっています。その後、管制も最大限の努力で誘導を図りますが、やがて交信は途絶えました。

後に公開されたボイスレコーダーからは、警告音鳴り響く中でコクピット内の緊迫したやり取りが、生々しく残されていました。そして「ダメだ・・・」という声の後、18時56分23秒頃に、大きな衝撃音が録音されていました。

 

後の調査において、同機が起こしたしりもち事故(1978年6月2日 羽田発伊丹行で着陸時に機体尾部を滑走路に接触させた事故)の修理を行った際、後部圧力隔壁の修理で発生したボーイング社の作業ミスが本事故の主原因と結論付けられています。

 

事故の詳細やボイスレコーダー音声などは、各種資料を確認していただければと思いますが、わたしがやはり感じたのは、520人という多くの方の命が失われた恐ろしさと悲しさです。楽しいはずの帰省や帰宅が、一瞬にして悲劇に変わったのです。後に見つかった遺品には、迫りくる恐怖と戦いながら、愛する家族らに宛てた遺書代わりのメッセージを殴り書いたものが多く見つかりました。その無念さたるや、到底言葉では言い表せないでしょう。震災のときもそうでしたが、今目の前にある平凡な日々がいかに大切で貴重であるのか、身近にいる人がいつも傍にいてくれることがいかに尊いことか、こうしたことが起こるたびに、つくづく思い知らされます。しかしまた、人間は忘れる生きものでもあり、時間が経つにつれて記憶も風化していきます。

 

123便のご遺族も高齢化し、御巣鷹の尾根に登る方も年々減りつつあります。123便という便名は日本航空では以降消滅し、2016年には国内の空からボーイング747型機が退役しました。一部報道では、今後数年内にボーイング社が747型機を製造中止するという情報もあります。32年という月日の長さを感じさせられる報ですね。

 

わたしは今も飛行機を使って移動しますが、「途中気流により大きく揺れることがありますが、飛行の安全性には問題ございません」とアナウンスされても、幼い頃に見た123便事故の恐怖が蘇り、着陸までは安心できない自分がいます。

 

明日の今頃、事故から32年を迎えます。この世を去った方々のご冥福をお祈りするとともに、今ある小さな日常の幸せを噛みしめ、記憶に留めたいと思います。

 

※なお、明日は更新をお休みします。