MASA日記

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忘れない3・11 ~ある家族の話~

6月11日 日曜日 【特集】

 

おはようございます。

毎月11日に振り返る、「忘れない3・11」。今日はある家族の話をご紹介します。

 

宮城県名取市に住むA君(当時 高校1年生)と出会ったのは、ゴールデンウィーク前の4月下旬のことでした。わたしは仕事上の知人の紹介で、名取市役所の一角をお借りして、彼と対面することになったのです。

 

細身で色白な彼は、パーカーにジーンズ、スニーカーを履いてわたしの前に来ると、ぎこちなく一礼をして正面に座りました。仲介してくれた知人が、早口で彼の身の上を語り始めます。家族構成は、介護を受けているおばあちゃん、それに彼の両親、お姉さん、まだ小学生の妹という6人家族だそうです。しかし、わたしが会った時点で生きているのは、おばあちゃん、彼、そして妹という3人。

震災当日、彼は同じ学校に通う高校3年生の姉の卒業を見守りました。2つ上の姉は、美容関連の専門学校への進学も決まっていて、卒業式の壇上、とても晴れやかな顔だったそうです。在校生である彼は、その姉の卒業を見届けると、下校して帰宅しました。一方の姉は、友人らとの高校最後の時間を楽しもうと、行きつけだったお店にご飯を食べに行き、その後彼女がどのようなルートを辿ったかは分かりませんが、あの大津波の犠牲者として発見されました。高校を卒業した事実を残し、明るい未来に向けて踏み出すはずの当日に、尊い命を奪われたのです。姉の友人の母親から、遺体発見を知らされた彼は、泥まみれになった姉の姿が信じられなかったそうです。

家に帰っていた彼は、母親と一緒に昼食をとりました。母親はおにぎりと佃煮、それに近くのお店で買ってきた鶏のから揚げを食卓に出し、流し込むようにして食べながら、姉の卒業式の様子を尋ねましたが、口数少ない彼は”本人に聞けばいいだろ”とばかりに、つれない返事をしていたそうです。まだ彼が食べ終わらないうちに、母親は、病院に寄ってから介護施設にいる祖母を迎えに行くと言い残し、母は車で家を出ました。

その言葉どおり、母は病院に立ち寄った後、介護施設にいた祖母のもとに向かいます。その足跡は、関係施設に確認が取れました。そして祖母と施設で落ちあい、施設を出ようとしたところで激震に見舞われたのです。ひとまず大きな揺れが収まるのを待った母は、家の安全確認と、祖母に当座必要となる衣類を持ってくると言い残し、軽自動車に乗って沿岸部に近い自宅に向かったのでした。その軽自動車の中で、ぐったりした姿で母親が見つかったのは、震災から2日後だったそうです。

午前中の仕事で卒業式に出られなかった母。姉の卒業式の晴れやかな様子、きっと母は聞きたかったに違いない。だから彼に、あれこれ聞いた。それなのに、何一つ教えてやれないまま、姉の誇らしげな様子を知らないまま、母は死んだ。おにぎりも佃煮も、どれも懐かしい味で、母は自分と話したくて、ほんの僅かな時間を縫って俺と昼ごはん食べようとしたのに-。彼は、車の中で息絶えた母を見て、自分を責めたそうです。

そんな彼は、家にいたものの、地震で身の危険を感じ、近所の人の車に乗せてもらい逃げたそうです。とにかく内陸へ。その方の判断が正しかったようで、彼は命からがら難を逃れ、そして避難所となった場所に着きました。もう既に夕方で、あの日は鉛色の空が重く垂れ込めていた宮城県、避難所の灯りもほとんど無く、薄暗い中でただ一人、いつ出会うとも分からない家族との再会を待ち続けていました。

1時間ほど経ったでしょうか。あぐらをかいて呆然としていた彼の耳に、「お兄ちゃん」という声が聞こえたのは。薄暗い中でその顔をはっきり認識できなくても、間違いなく自分の妹の聞き慣れた声だ!彼は立ち上がり、声の方向に歩を進めると、いた!妹でした。いつもは面倒くさい妹だとしか思っていなかった彼は、妹を強く抱きしめたそうです。何度も何度も。自分と血の繋がった家族と会う、この当たり前のことなのに、どうしてこんなに嬉しくて、どうしてこんなに涙が流れるんだろう。そう思いながら。

そこに座り直し、家族が来ても大丈夫なように、と自分の衣類などで少し場所取りをしながら待つ2人のもとに、他の家族がやってくることはありませんでした。無料開放された公衆電話から何度電話しても、父も、母も、出ることはありません。まだ16歳、高校1年生の彼を襲った不安が、どれほどのものだったろうかと思うと、言葉に詰まります。きっと、ほんの1秒でも、声が聞きたかったに違いありません。

朝陽がのぼり、そして6時間ほど経った頃、姉の友人の母親から姉の遺体の話を聞きました。小学生の妹の手を強く握ったまま見た姉の遺体は、もうあの誇らしげな顔ではなかったと言います。きっと津波から逃げ惑う、そんな恐怖と絶望に、すべての体力を使い果たしたのか、疲れ切った表情だったと。

避難所に妹を残し、誰か家族がいたら一緒にいるよう言い残した彼。変わり果てた、住み慣れた町の中を彷徨うと、母の車に似た軽自動車を見つけます。走り出しながら、すぐに足は泊ります。会いたい-でも最悪の結末だったら知りたくない-。この心の葛藤を繰り返し、ようやく車に辿り着いた彼を待ち受けていたのは、母親の死でした。その胸に顔をうずめながら彼が自分を責めたのは、既に書いたとおりです。

そして音信不通だった父の死は、さらにもっと遅れて知らされました。妹と2人、家族のために確保したスペースも、少しずつ狭まり、もう駄目だろうと思っていたところに届いた父親の訃報だっただけに、脱力以外何も感じなかったと彼は言います。電気工事で電柱に登っていた彼の父親は、震災の揺れでロープか何かが絡まったことが原因で亡くなったと聞かされました。

 

こうして、6人家族は3人家族になりました。それも、介護が必要な祖母と、まだ小学生の妹、そして高校1年生の彼。どうやって生きて行けば良いのか、何をすれば良いのか分からない。彼は淡々と言いました。わたしは掛ける言葉もありませんでした。