MASA日記

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マニアな小ネタの世界 第7回~山本昌という投手の凄さ(前編)~

4月14日 金曜日 マニアな小ネタの世界第7回

 

こんばんは。

今夜はわたしが大好きだった、そして今でも監督としてドラゴンズへの復帰を熱望する投手、山本昌広(登録名:山本昌)投手の凄さを探ります。ネタ的には色々な場所で明かされている話なので、ご存知の方も多いとは思いますけどね。 ※以降、昌さんと表記

 

山本昌のプロフィール

生年月日:1965年8月11日(現在51歳)

身長体重:186cm、87kg

出身高校:日大藤沢高校

投球打席:左投げ・左打ち

タイトル:最多勝<1993、1994、1997>、最優秀防御率<1993>、最多奪三振<1997>

実働年数:29年<歴代1位タイ>

連続勝利:23年<歴代1位タイ>

通算記録:219勝165敗 防御率3.45 奪三振2310個 投球回3348.2回 対戦打者13862人

その他、数々の最年長記録を打ち立ててきました。中日ドラゴンズに興味が無くても、プロ野球好きならば、昌さんを知らない人はいないと言っても良いでしょう。

 

②凄い!~その1:体がデカい~

わたしは中日ドラゴンズファンですから、沖縄までキャンプを見に行ったことも何度かあるんです。特に晩年は2軍の読谷球場で調整を任されることが多かった昌さんを間近で見ると、とにかく”大男”ですよ。個人的に、博多駅のトイレでダルビッシュ有投手と遭遇したことありますが、彼は身長が高くスマートなのに対し、昌さんは縦にも横にもデカい。それもそのはず、公式プロフィールにある数字でも十分大きいのですが、これは”サバ”を読んでいるそうで、実際には188cm、98kgなのだとか。

そりゃデカいはずですわ(笑) デカいだけではなく、32年も現役を続けたのですから、その強靭さもまた凄いんでしょうね。

 

③凄い!~その2:ある意味ラッキーボーイ~

まず一つ目のラッキーは、プロ野球に入れたこと。日大藤沢高校は強豪校ではあるものの、昌さんは甲子園出場経験も無く、本人は国語か社会の教師になるつもりで、日大への進学を希望していました。ところが、神奈川県高校選抜チームの一員で韓国選抜チーム相手に好投したのが目に留まり、中日ドラゴンズからスカウトされます。本人は巨人ファンながら、父親中日ファンだったこともあり、ドラゴンズに入団したそうです。

二つ目のラッキーは、背番号34を与えられたこと。前年まで、エースの小松辰夫がつけていた番号でしたが、小松がドラゴンズのエースナンバー20に変更になったため、偶然空き番になったのが34。1984年入団者は、ドラフト順に若い方から空き番が与えられたため(除く 永久欠番)、ドラフト5位の昌さんに34が回ってきた。背番号34は、金田正一をはじめとする左腕のエースがつけることが多く、偶然にも左腕の昌さんが背負うことになったのでした。なお、同一背番号の着用年数は歴代1位である。

三つ目のラッキーは、②にも関連しますが、体がデカかったこと。付け加えて左投手だったこと。入団後まったく芽が出なかった昌さんは、クビ寸前だったそうです。しかし、当時の星野仙一監督から、左投手は少ないし、体がデカいからとりあえず置いておこうと、首の皮一枚繋がったところがラッキーだったのです。もし、昌さんが右腕投手だったり、体が並サイズならば、とっくにクビだった可能性もあります。

四つ目のラッキーは、アメリカ留学に行けたこと。当時のドラゴンズは、米大リーグのドジャースと提携しており、”その年の戦力にならない”選手を派遣して友好関係を維持する必要があった中で、見事に昌さんは選ばれるわけです。キャンプ打ち上げで頑張ろうと思っていた矢先のアメリカ残留に、若かりし昌さんは相当凹んだそうですが、これが後の野球人生を大きく変えるキッカケになっています。

五つ目のラッキーは、アイク生原さん(故人)と出会ったこと。これはもう有名ですね。若かりし昌さんにつきっきりで、熱心に練習相手になったり、投球記録をつけたり、現地生活の相談相手になったりと、アイクさん抜きに昌さんは語れません。

六つ目のラッキーは、昌さんの代名詞であるスクリューボールを習得できたこと。左投手の投げるシンカーボールですが、過去に上原投手(大リーガー)が、「打席で視界からボールが消えた」と話していたように、その変化は凄まじかったそう。昌さんのスクリューは、アイクさんに連れられて見に行ったフェルナンド・バレンズエラ投手を手本にしたと言われることがありますが、実際は「あんな球は無理!」と昌さんは割り切ったのだとか。ところが、キャッチボールをしていたときに、同じようにキャッチボールをしていたメキシコ人内野手が遊びで投げていたボールが異様に曲がるのを見た昌さんは、その握り方を教えてもらう。これを実践で使ってみると、面白いように三振が取れ、やがてこのボールが彼の代名詞、スクリューボールとなったそうです。そのとき暇そうにキャッチボールしていなければ、とっくに引退していたことでしょう。

七つ目のラッキーは、ナイトゲームに慣れていたこと。日本の場合、二軍はデーゲームがほとんどですが、アメリカではナイトゲームが多くあり、夜の試合に目も体も順応していたところに、日本から呼び戻しがあった。戻ってからの一軍での活躍には、地味ながらもナイトゲーム慣れ、もあったと思います。

 

昌さんについて書き出すと、まだまだあるので、今日はここまで。次回、続編を書きます。