読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

MASA日記

働き方、お金のこと、趣味のこと、ニュースなど、徒然なるままに書いています

3・11を忘れない~予兆~

今日は10月11日です。火曜日ですが、東日本大震災の記憶と記録を書き綴ります。

 

わたしは2009年4月~2012年3月までの3年間、前職の仙台支社に勤務していました。仕事の詳細は明かせませんが、個人も法人も含め、お客様サービスの仕事でした。

2011年2月末から、監督官庁による検査が入っており、決算期も相俟って、3月はとても忙しかったのを覚えています。そんなわたしの2011年3月7日の手帳には、「東北管内も入検の可能性ありとのこと 土日出社指示あり」と走り書きがありました。3月7日は月曜日だったので、週初めの打ち合わせで、上司より得た情報を書き留めたのです。

 

その2日後の3月9日、わたしは15時より、部下のクレーム対応のために、岩沼市仙台市の南方)に出向いたのですが、それに備えて少し早めに採った昼食中、今思えば”予兆”となった地震が発生しました。市役所近くのラーメン屋で、カウンターを囲んでラーメンを待っていたときのこと、突然体に大きな揺れを感じました。たしか厨房には3名の男性店員が並び、手分けしてラーメンを作っていましたが、その揺れで火災が起きないよう、足を踏ん張り、火を消して鍋を押さえていたのを覚えています。速報によると、東北地方の震度は5でした。まだ東日本大震災前の平時であり、震度5は相応のインパクトだったのですが、その日の手帳にはこう書いてあります。「震度5では入検もクレームも無くならない。もっと大きな揺れなら良かったのに・・・」と。

とても不謹慎です、そして後には”そんなこと思わなければ良かった”と反省もしています、しかし、これが当時のわたしの偽らざる気持ちでした。

おそらく、あの震度5を体感したとき、2日後の東日本大震災を予見した人はほとんどいなかったのではないでしょうか。少なくとも、わたしの周りは誰一人として、あの地震が”予兆”であるとは思っていなかったと言います。

 

出されたラーメンをさっさと掻き込んだわたしは、社有車に乗って仙台東部道路を走り、岩沼ICから沿岸部に向かいました。お客様はたいそうご立腹でしたが、やはり足を運んで誠意を示すことが大切で、結果的にはお許しいただきました。

 

実は結果的に、わたしを憂鬱にしたこのお客様に助けられています。当初、「3月11日金曜日の15時に来てくれ」と言われていました。しかし、お客様がせっかちな方で、「早く済ませた方がいい!水曜日に時間作るから3月9日の15時に来てくれ!」と、半ば一方的な物言いで日程変更され、やむなく応じた次第でした。

 

でも、後で考えてみると、助かったのです。東日本大震災発生は、3月11日の14時46分です。おそらく、当初どおりであれば発生時にはお客様の家に着く時間です。さらにその場所は岩沼市沿岸部で、生死を分けた一つの境となった仙台東部道路の海側にあります。つまり、当初のままならば、わたしは東日本大震災発生時に、津波に襲われた不慣れな場所に一人で出向いていたはずだったのです。

 

震災から1週間ほど経った頃、その「偶然」を思うに至り、自分が”生かされているんだな”という感覚を抱きました。そして、だからこそ”生きなければならない”し、”人のために役に立ちたい”という気持ちにもなりました。人が社会の中で生かされている意味を考えたのは、このときが初めてだったと思います。

 

かくして、3月9日に、重荷だったうちの一つであるクレーム対応を終えたわたしは、もう一つの悩みの種である監督官庁の入検に恐れながらも、決算作業を夜遅くまでこなしていたのでした。昼間の震度5が、東日本大震災の”予兆”だということも知らずに。